羽賀寺Haga-ji Temple
寺宝・名所
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本堂
本堂は、文安4(1447)年、奥州十三湊(青森県)を本拠地とした日ノ本将軍安倍康季によって再建されました。~『羽賀寺縁起』(重要文化財)より。~正面5間(13.72m)、側面6間(14.63m)入母屋造檜皮葺で、平面は、3間×3間の内陣の前に3間×1間の礼堂を付し、四周に1間の庇を、さらに縁を廻らしています。構造は和様を基調としており、長押を用い軸部を固め、出組斗栱を組み、二軒繁垂木の軒を受けています。中備は正面中央間を蟇股とし、ほかは簑束となっています。重要文化財。
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木造十一面観音菩薩立像
羽賀寺の本尊で、10世紀初期の作。像高146.4cm。元正天皇の御影との伝説があります。檜の一木造、翻波式(ほんぱしき)衣文、膝に届く長い腕など、いずれも平安前期の古様をとどめており、瞑想的な眉目も弘仁・貞観文化の観音像に共通しています。本像の最大の特色は、長い間、秘仏であったことから造立当初の彩色がほぼ完全に残っていることで、頭上に十一面を戴き、左手で蓮華を挿した水瓶を持ち、右手を垂下して施無畏印を結び、蓮華座上に立つ姿の十一面観音立像です。重要文化財。
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木造千手観音菩薩立像
長寛3年(1165年)作。像高135.4cm。檜の寄木造。本像は十一面四十二臂で、蓮華座上に立つ通形の千手観音立像です。内部は入念に内刳(うちぐり)を施す。浅い彫り口や温雅な目鼻立ちなど、典型的な藤原期の仏像の様式である一方、魚鱗葺の蓮弁は鎌倉仏の特徴を示し、過渡期の仏像であることを示しています。重要文化財。
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木造毘沙門天立像
治承2年(1178年)作。像高159.1cm。当山の千手観音像、明通寺の不動明王とともに三尊形式で安置されていました。檜の一木造。本像は兜をかぶり、鎧を着け、右手を高く挙げて掌上に宝塔を捧げ、邪鬼を踏まえて立つ毘沙門天立像です。憤怒相ではありますが、その表情は極めて穏やかです。胎内に墨書銘があり、治承2年(1178)に造像されたことがわかっています。 重要文化財。
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紙本墨書羽賀寺縁起
羽賀寺の由来を後陽成天皇の父である陽光院誠仁親王が書き、その奥書を後陽成天皇が書いたものです。 鳥の子紙に金で罫線が引かれ、金銀箔で装飾された料紙に書かれており、内容は、霊亀2年(716)の行基の草創から、天暦元年(947)、永祚元年(989)の災害と復旧、建久元年(1190)の源頼朝による三重塔の建立、応永5年(1398)、永享7年(1435)の火災と復旧などについて書かれています。また、巻末には、本縁起が陽光院の宸翰であるという旨の後陽成天皇による奥書きがあります。 縦50.0㎝、全長4.30m。重要文化財。
沿革
「本浄山羽賀寺縁起」には、羽賀寺に残る鳳凰伝説について記されています。 その内容は、716年(霊亀2年)羽賀寺背後の山頂に五彩の羽毛を持つ神鳥が来て、美しい羽根を残して去りました。この羽根を当時の女帝・元正天皇に献上したところ、帝は行基に「何の羽か」と質問し、行基は鳳凰の羽根であると告げました。
すると、「鳳凰の出現は泰平の証」としてその地に寺を建立し、鳳聚山羽賀寺と名付けたというものです。
この時、行基が元正天皇をモデルに造ったのが、本尊十一面観音像です。その顔は心のやすらぎを覚える柔和さで国の重要文化財にも指定されています。
その後、水害や火災に幾度か会いましたが、天暦元年には村上天皇の勅命により再建、また建久元年には源頼朝が三重塔を寄進、文安四年(一四四七)奥州十三湊の安倍康季が諸堂を再建。本堂(重要文化財指定・観音堂)に安置されている本尊の木造十一面観音立像も重要文化財に指定されています。この仏像は一・四六メートルの等身大、彩色も美しく残る平安初期の貞観仏。女帝元正天皇の御影といわれ、えもいわれぬ美しさをたたえておられます。頭上の十一の化仏の面は衆生の十一品の無智をたち切り悟りに至る十一の段階をあらわし、感動的な仏様です。ほかに脇侍の木造千手観音立像(重文)や木造毘沙門天立像(重文)など多くの寺宝を蔵しています。
拝観のご案内
現在の情報
- 公開期間
- 無休
- 拝観休止日
- なし。
- 拝観時間
- 9:00~16:00
- 拝観料
- 拝観料 400円
- ご連絡先
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- 電話番号 / FAX
- TEL 0770-52-4502 / FAX 0770-52-4404
交通案内
- 名称
- 鳳聚山 羽賀寺
- 所在地
- 福井県小浜市羽賀83-5
- 交通アクセス
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- 公共交通機関をご利用の方
JR小浜駅からタクシーで10分
- お車をご利用の方
舞鶴若狭自動車道小浜ICから車で約5分
- 駐車場
- あり。無料