清凉寺(嵯峨釈迦堂)Seiryo-ji Temple
清凉寺は通称 嵯峨釈迦堂と申しますように、ご本尊はお釈迦様です。
清凉寺の開山、奝然(ちょうねん)上人は、平安時代の末、永観元年(983)に中国に渡りました。奝然は、天台山からさらに五台山に巡拝し、宗の都汴京(べんけい)[開封]に到着して当時啓聖禅院に安置されていた、優塡王(うてんおう)思慕の、釈迦三十七歳のみ姿をそのままに伝えるという釈迦栴檀瑞像(せんだんずいぞう)を拝しました。そののち許されて新たに如来像を彫して海を渡り、多くの困難にもかかわらず尊像を招来して京都に帰還したのは、一条天皇寛和3年(987)のことでありました。それ以来、このお釈迦様を本尊として、清凉寺は発展してまいりました。
寺宝・名所
-
仁王門
天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟。寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いました。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります。ケヤキ造りの二階二重門です。 嵐山渡月橋からまっすぐ北にさかのぼり、左手に大本山天龍寺を見、JR嵯峨野線を越え、しばらく行くと清凉寺の仁王門に至ります。嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます。
-
本堂(釈迦堂)
「釈迦堂」は、清凉寺本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂です。寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。同16年に鎮壇、遷仏供養を行いました。桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます。内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものです。宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります。また本堂正面楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っています。
-
本堂北 渡り廊下からみた弁天堂
弁天堂は本堂のうしろの池に面して建っています。この写真では弁天堂が渡り廊下の窓の間から「額縁の絵」のように見えます。弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いています。建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。
-
大方丈と庭園
旧大方丈は、寛永14年(1637)に消失し、現在のものは享保年間(1716-1735)の造営と伝えられます。寛永14年の類焼以前のものは六つで早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康および実母のおちかの方の寄進になるものです。方丈前の庭は、ところどころに石を置いた枯山水の平庭で、小堀遠州作と伝えます。
-
狂言堂
境内西に位置する狂言堂です。春と秋には、嵯峨大念仏狂言保存会の皆さんにより、嵯峨大念仏狂言が演じられます。嵯峨大念仏狂言は、壬生狂言と同じく円覚上人が創始されたものといわれます。
-
阿弥陀堂
本堂東に位置する阿弥陀堂です。嵯峨天皇の皇子左大臣源融が山荘・棲霞観(せいかかん)を建て、後に棲霞寺と改めましたが、これが阿弥陀堂の始まりです。
沿革
本尊 赤栴檀の釈迦如来(国宝)
清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院です。それは清凉寺の本尊釈迦如来像が古来より多くの人々に信仰を集めてきたことに由来しています。
そのことはまた、「如来二伝のおんかたみのむつまじさに、嵯峨の清凉寺にもうでて……」の序文に始まる増鏡や、宝物集・謡曲百万にかたられていることからもうかがえます。本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめています。この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の奝然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されました。おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています。
釈迦堂縁起(狩野法源元信絵・青蓮院尊応法親王詞書六巻)(重文)(寄託)
この尊像の成立・中国への伝来・中国での尊崇については、奝然に随侍して入宋した盛算が開封で写した開宝寺永安院本の「優塡王所造栴檀釈迦瑞像歴記」(仏教全書遊方伝所収)に詳しく記されていますが、いまこの絵巻物には、更に尊像の日本請来・清凉寺建立・信仰と霊験の数々を加えて詳細に画き出しています。いま大要を述べますと、仏が忉利天宮へ母なる摩耶夫人のために法をときにのぼられたとき、仏によって大きな自覚をあたえられ、ともに生かされていた人々がよりどころを失い、なかでも優塡王や信者たちは、慈母に離れた子供のように寂しさにたえかねたので、王は名工毘首羯摩天に嘱して、栴檀の香木で仏の尊容を模したてまつらしめた。仏がお帰りになって自分と寸分ちがわぬ尊像を御覧になってよろこばれ、われ亡きのちは自分にかわって人々を済度すべきであると、みずから御開眼になったと伝えらています。のちに鳩摩羅琰三蔵がこの像を奉じてヒマラヤの嶮をこえて亀茲国に至り、次いで鳩摩羅什によって長安に伝えられ、更に南朝から隋唐をつうじて、楊州開元寺に奉安せられたが、唐が滅んでから一時南京にあり、北宋の統一になって都の開封にうつされ、奝然入宋のときは、帝室の廟寺である啓聖禅院に安置されていました。この歴記の内容につけ加えて、奝然は仏の真容を是非日本に伝えたいことを太宗にお願いし、香木を求め生身の釈迦の信仰から、五臓六腑等をも胎内に封じた模像を完成しました。ときに奝然の霊夢に仏がわれをともなって日本に渡れとの言葉とともに真仏と模像とが台座をかわられたといいます。かくて奝然は釈尊が親しく「摩頂開眼」せられた尊像を日本にお迎えすることが出来たのです。
開 創
この尊像の請来は、一条天皇の永延元年(987)で、同時に奝然入宋のときにできた世界で最初の大印刷物である蜀版一切経五千四十巻(現存せず)、十六羅漢画(国宝)、五台山文珠画像(現存せず)等も請来しています(小右記に詳しい)。奝然は愛宕山を中国の五台山に模して、大清凉寺の建立をはかったが、事ならず、弟子盛算が山麓の嵯峨天皇の皇子左大臣源融の山荘を仏寺にした棲霞寺内の釈迦堂に奉安したのが創めであります。
棲霞寺の弥陀三尊 (現在は霊宝館に収蔵)(国宝)
住僧も華厳・真言・天台・念仏と各宗にわたり、禅僧の帰依するもの多く、現に釈迦堂前の「栴檀瑞像」の額は黄檗隠元禅師の筆です。しかし尊像を中心にひろく信者勧化の実績をあげたのは、主として念仏宗の僧でありましたから、次第にその系統の人々が寺を運営する主力となり、徳川氏が浄土宗であったのを背景にして、将軍家の発願、住友家の支援による元禄の再建を経て明治には全く浄土宗に属するに至りました。
拝観のご案内
現在の情報
- 公開期間
- 無休
- 拝観休止日
- 法要等行事の時は、拝観が出来ない場合もありますのでご了承ください。
- 拝観時間
- 9時~16時(4月・5月、10月・11月は9時~17時)
- 拝観料
- 拝観料(境内参拝自由) 一般:400円 拝観料(境内参拝自由) 中学生・高校生:300円 拝観料(境内参拝自由) 小学生:200円 霊宝館特別公開(4月・5月、10月・11月)本堂霊宝館共通券 一般:700円 本堂霊宝館共通券 中学生・高校生:500円 本堂霊宝館共通券 小学生:300円
- ご連絡先
-
- 電話番号 / FAX
- TEL:075-861-0343 / FAX:075-861-0310
- URL
- http://seiryoji.or.jp/
行事案内
現在の情報
清凉寺 年中行事予定
月 | 日 | 時間 | 行事内容 |
---|---|---|---|
毎月 | 8日 | 午前11時 | 釈尊ご聖日(八日会法要と法話) |
3月 | 15日 | 午後8時 | 涅槃(ねはん)会及びお松明(たいまつ)式 |
春季彼岸 | 中日 | 午後2時 | 彼岸会及び永代祠堂回向 |
4月 | 8日 | 午前11時 | お花まつり |
4月 | 第1・2日曜、第2土曜 | 嵯峨大念佛狂言 | |
4月 | 19日 | 午後2時 | お 身 拭 式 |
5月 | 8日 | 午前11時 | 豊 臣 秀 頼 公 忌 |
8月 | 8日 | 午前9~12時 | 盆 施 餓 鬼 会 |
11月 | 第2日曜 | 午前10時 | 夕 霧 供 養 |
12月 | 6,7,8日 | 午前6時~午後5時(8日のみ昼間で) | 三千礼拝佛名会 |
毎月 | 第4日曜 | 午前10時 | 写 経 会 |
交通案内
- 名称
- 五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
- 所在地
- 〒616-8447 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
- 交通アクセス
-
- 京都バス
京都駅より大覚寺行・清滝行にて嵯峨釈迦堂前下車
- 市バス
京都駅より28番嵐山大覚寺行 嵯峨釈迦堂前下車
四条烏丸より91番太秦映画村大覚寺行 嵯峨釈迦堂前下車
三条京阪より11番嵯峨山越行 嵯峨小学校前下車
- JR
嵯峨嵐山駅下車 北西0.5km
- 京福電鉄
京福嵐山駅下車 北へ0.65km
- 阪急電鉄
阪急嵐山駅下車 北へ2.5km
- 駐車場
- 当山東側 清滝道よりお入りください。普通車800円(1日) バス2,000円(2時間)